先の見えないこと

 最近ブログの整理を始めました。ずっとただ書き連ねているだけなのですが、今まで500から600あった閲覧数が今朝は80人となっていて、ちょっとびっくり、でも80人もの方々が目を通して下さっているなんて、素晴らしいことです。ネットの仕組みはよくわからないけれど、今膨大な数になったブログを整理して、USBメモリに移しておこうと2017年からの読み返しをしながら、いらないものは削除しています。

 外国人の方や日本人の方の着つけ、エアビーをはじめて忙しかった頃、義母や実母の介護、看病、看取り、そしてコロナ感染。つらつら書き綴ってきたけれど、記憶力が減退してきたこともあり、こうやって書き留めてきてよかったと思っています。コロナ感染もなかなか下火にならず、紛争も相変わらず続いていて、先の見えない不安はいつも付きまといます。でも、これまでも先は見えなかったのに、みんなと一緒なら大丈夫だと、無理やり歩いてきたのかもしれません。

 

 朝のワールドニュースを見ていると、パキスタンでは全国土の三分の一が洪水で水に漬かっているという大災害に見舞われているし、ヨーロッパ特にスペインは雨が全く降らず乾燥しきって作物も実らない、年内に雨が降るかとまで懸念している、そしてウクライナでは原発襲撃が問題となって、かと思えばサンバカーニバルが復活したと喜んで衣装をまとって抱き合う人達もいる。なんだろう、この風景はと思います。コロナウィルスは二年間人間を閉じ込めて考えさせたのに、私たちの考え方は今までと変わらないのです。

 今私がよく見ているYouTubeは、「ダウン症のあんちゃんねる」「みいちゃんねる」「離婚して猫二匹と住む主」などですが、考えてみると先の見えない不安というものが前提となっているものばかりです。結婚して優しい旦那さんと暮らし、幸せな家庭を作ることに破れた三十代の女性は、猫二匹と暮らす生活を守るため働き、暴力をふるう夫から逃れた幸せに心からほっとしているし、ダウン症という運命を引き受けた我が子をいとおしみ、先が見えないけれど深く愛情を注ぐ両親の心が、ユーチューブで配信されています。

 先が見えないことに不安になったり嘆いたりするのではなく、先が見えないというのは先があるからということだと言う言葉を聞いて、先が見えないと思える人達がどんなに優しさに満ちているか、声を掛け合っているかを私たちの周りでもしみじみ感じています。先が見えると思いこんで相手の領地を侵略しようとしたり迫害したりする人間たちは、何故妙な自信に満ちている顔をするのでしょう。

 現実に絶望せず、何かの気持ち、人が今求めているものの形を互いに探り合っていくことこそ、大事なのではないかと思います。自分の欲だけで生きて行く世界はもうない。共生していくこと、相手の社会を理解し、他者を常に尊重する姿勢を持つことが、自分をも救うことになるということ、先が見えないと不安になりながら、手で探りつつ進んで行けば、道は開けていくのではないか、結局全て自分との戦いのような気がします。

 苦しんで悩んで、それでも前を向いて進んで行く人は優しい。厳しい情勢はもっと続くでしょう。誰にも先は見えないのです。毎日毎日、心して生きて行かなくてはなりません。