パパは日本人 2023年8月

 昨年の暮れに来たゲストに、「あなたは相手の中の何かを見たくてこの仕事をしている」と言われたことがあります。でもそれは、相手が外国人でも七五三の五歳の男の子でも変わりません。この混迷の時代、これから何が起こるかわからない時に、子供でも大人でも必要なものは「オーラ」と「スピリット」だということを最近強く感じる私は、運命に翻弄されない座標軸をちゃんと持っていれば、逆に運命に対して主導権を握ることができると思うのです。

紛争があちこちで起き、選挙戦をめぐるいざこざやスキャンダルをみていると、世界にはちゃんとした指導者がなぜいないのかと思ってしまう、何処の学校で勉強したとかいう問題ではなく、どんなエートスを持って考え抜いて自分自身を作り上げるかが大事なのに、その結果としての人間性が欠けているメンバーばかりが世の中の中央に押し出されてきます。

  物事をそのまま受け入れるというのは、ずいぶん体力のいることです。何でこんな運命なのか、何でここに生れたのか、全く逃れられない事ばかりだけれど、その中で自分のやってきたことの意味を問い直す、光もそして影もできる限り正直に正確に認めた上で進まなければなりません。そしてそんな時私たちの心を救うのは、本物のすごさ、良さ、素晴らしさ、感動、そしてオーラのあるものを見てきたか、味わってきたか、どれだけ心が感動に震える経験をしてきたか、どんなことで自信をつけてきたか、沢山きれいなものに触れてきたか、自分を偽らないで正直に失敗もしてきたかという経験です。余分な力を抜き、穏やかな心で、全てを慈しみたいと思う感謝の気持ちが持てるように、自分の内面をクリアにし、過去の執着や重たい波動は浄化して、軽やかな魂を手に入れるのです。

1000人目のゲストとなったナタリアのパパは日本人なのだけれど、9歳の時大阪からアメリカに渡り、それから一度も日本に帰らずアメリカ人の女性と結婚してずっとミルウオーキーで暮らして日本語も忘れてしまったそうです。今回娘さんと女の子の孫が日本に初めて来ることになって、日本の文化を知って欲しいとのパパの願いをかなえるため、私のところへ来てくれた小柄で黒髪のナタリーはどこから見ても日本人で、パパは76歳で夫と同い年、戦後生まれでアメリカへ渡って、苦労してここまで来たんだろうなあと夫はあとでしみじみ言っていました。

 少し遅れてやってきたのは、イギリスの学校で同級生だったという26歳の南インド生まれで今はドバイに住むShruthiと、背の高いほっそりした香港のLeanneで、ドバイで買ったというカラフルなワンピースを着たインドさんは明るくて頭が良くて人懐っこくて、しばらく話してから女の子三人振袖をはおり並んでたくさん写真を撮りました

 柴又へ行ってお寺の中の彫刻版を見ていた時、Shruthiはインドはヒンズー教だけれどカーストや地域によって信仰内容が違い、ヒンズー教徒の数だけ信仰があり、多様性が魅力の宗教だと言い、柴又の帝釈天の穏やかな版画像を見た彼女はインドの帝釈天は怒った顔をしている、インドの神様はみんなそうだし、板ではなく石で出来ているし、ストーリーは全然違うから、これは日本独特のものだと教えてくれました。コロナ前に来たインドのククー君に痛烈にこの彫刻版を批判されたことが深く心に残っている私は、日本人は真似ばかりしている民族だと卑下してきたのですが、どうもそうではない気がしてきて、日本の仏教というものはシルクロードの端っこで静かに熟成してオリジナルなものになっているのかもしれません。

インドに物覚えが悪く自分の名前すらすぐ忘れてしまうお釈迦様のお弟子さんがいて、自分の愚かさを嘆いて泣いているとお釈迦様に、「悲しまなくてもよい、お前は自分の愚かさをよく知っている。世の中には自身の愚かさを自覚しないでいる者が多い。愚かさを知ることはとても大切なことだ」と優しく慰められて、一本の箒と「塵を払い、垢を除かん」の言葉を授けられました。でもどんなに精進して掃除をしても一か所だけ汚れているところがあると言われて、それは自分の心だと気がつき、心とは綺麗にしても綺麗にしても、又汚れてくるもので、ここに、掃除をする理由があり、お釈迦様にはどれだけ隅から隅まできれいにしてもだめだと言われる。それでもあきらめずに黙々と掃除を続ける。掃除をするのは、汚れることを前提にしているのだから、心の垢を流し、心の塵を除くことをし続けること。一心不乱に専念して掃除をすることで集中力が高まり、心が整い、創意工夫が生まれ意味が出てくる。

 日本人は真面目だし街も電車の中もトイレも綺麗だとよくゲストに言われるのですが、いつまでも汚れているのは自分の心で、でも諦めずに黙々と掃除を続ける、何百回もこのお寺の彫刻版の前に佇むことも、私の修行の一つなのでした。

この世界は人類史上においても非常に大事な分水嶺を迎えています。 分水嶺とは異なる水系の境目を指し、分水界となっている山頂と山頂をつなぐ峰筋のことをいい、物事がどうなるのか、方向性が決まる分かれ目ということなのだそうです。地表に降った雨が、複数の水系に分かれる境界となっているところというけれど、もしそれがいまだかつて経験したことがないような豪雨だったら、どうなるのでしょう。どんな分水嶺になるのか、山ごと崩れ落ちて山自体がなくなるかもしれない。それほど今私たちは切羽詰まったところにいます。ターニングポイントとか曲がり角とか分かれ道というのは、今までの世界の事だったような気がしてなりません。普通に私たちが慣れ親しんできた自然の営みや美しさは、私たちの脳裏にしか刻まれなくなるのでしょうか。これからどうしたらいいのだろうか。

アメリカにいる姪御さんに赤い子供用の浴衣、パパにはグレイの縞の長襦袢をプレゼントし、インドさんはレトロな中古の振袖を選び、お友達の香港の女の子は羽生選手の大ファンだったのでスケートの雑誌を渡しました。帰り際インドさんは隣の板金やさんが銅で作った鶴に目を惹かれ、素晴らしいというのでお国へ持って行ってもらいました。世界は広くてそして繋がっている、職人さんのスキルと文化、それを見つける審美眼。

毎朝カラスの鳴き声で目を覚ますのだけれど、蝉の声はまだ聞こえません。蝉は卵が木の幹に産み付けられて、幼虫になってから幹を伝って地中に潜り、そこで7年も過ごして成長します。こうして大地の力をたっぷり吸収した蝉の幼虫は、ある夏の早朝に意を決して土から這い出て、自分の生まれた木に登ってじっとしながら殻を破り、日が昇るころには美しい大人の蝉として羽を広げるのです。

 蝉の鳴き声は地球との繋がりをディープに深めてくれるパワフルな音霊(おとだま)で、そこには生命力を呼び覚ますような霊力が籠っている。そうして地上では7日間の寿命を、その命の限り鳴き通すことで私たちにその恩恵をシェアして下さっている。その鳴き声には神秘的な生命の物語が折りたたまれているのです。その音霊を受け取るには、自分から耳を澄まし、意識を向けることで初めて、生命の波動とシンクロできる、蝉時雨には地球の愛との縁を深める力がある。

すべてを大事にしなさいと。ずっと地中に潜っていて、満を持して今出てきた蝉たちは、何かを告げるために鳴いているのです。これではいけない。今すぐ気がついて、やるべきことをしなさいと。