俯瞰

 仕事も一段落し細かい用事も済んだので、銀座のデパートにお中元を出しに行こうと思ったら、朝から激しく雨が降っています。グッチでの写真展も行くので、ワンピースにレインコートを着て東銀座につくと雨は少し小ぶりになり、膝も少し良くなったので頑張って歩いていると、すれ違うのはほぼ外国人なのに気が付きました。この雨では大変でしょうに、子供をおんぶして傘を差しているアジア系の女性もいて、みんなたくましく、何といっても治安のよい日本では安心して過ごせるのが有難い事です。

 デパートのエスカレーターでは長い洋服を着たイスラムの女性が裾が引っかかりそうになって私にすがり、手を取って助けたけれど、ブランド品の売り場では外国人の長い行列が出来ていて、今までとはずいぶん雰囲気が違います。うちに来るゲストはあまりこういうところには来ないタイプが多い気がするけれど、今買い物の有利な日本でブランド品を買うことが文化なのかしらと思って、なんだか重い気持ちになりました。反対に後で行ったグッチのお店では、写真展に来た日本人の女性たちが時間待ちをしている間控えめに品物を見ていて、私も含めあまりブランド品を買わないようなタイプの方々が、意を決して店員さんに声を掛けて購入していて、あまりに対照的な風景なのに驚くのです。

 38歳で八丈島出身の小浪次郎さんという新進気鋭の写真家が羽生結弦さんを撮っているということでとても話題になっている写真展なのだけれど、彼の記事をサイトで読んでみると18歳の時にヴォルフファング・ティルマンスというドイツの写真家の「free swimmer」という展示を見た時に、自分の過去がフラッシュバックしてきた感覚を受け、自分は彼の人生に全く関与していないけれど、写真を見ただけで自分の昔の記憶が蘇ってきて、写真にはそういう力があるのではないかと思って本格的に写真を始めたのです。

 被写体がいて、自分がいて、写真家としていい写真を残すためには被写体自体が見ることが出来ない風景を見せたい、それは常に自分が見たことがない景色を見るために、自分だけの視点を持ち続け、自分の生きてきた道を振り返り、自分にしか関われない者、物、モノ、それを見つけなければならないのです。あなたとだれかの小さい世界だったものが、いずれ誰かを巻き込んで大きな世界に変わるかもしれない、そうしたらまた違う見え方になるかもしれない。自分がやりたいビジョンさえ持っていれば、それに向かって動いていけばいいのだと彼は言います。

 レベルは全く違うのだけれど、私も着物姿のゲストの写真をたくさん撮り、寺の庭園では素敵なスポットでポーズを撮って貰うのだけれど、アングルとかポーズとか全く自信が無くてお茶を濁すようなものしか撮れず、他の若いゲストがいる時は、若者の感性で撮って貰いたくて預かったカメラを渡してしまいます。一度カメラマンだという日本の方が帝釈天で私のスマホでゲストを撮って下さったことがあり、身体の位置を低くしたり空を大きく入れた斬新な写真を残してくれました。私にはできないなとその時は思ったのだけれど、あとで見るとアングルが低いから、着物姿のバランスが悪くて、ヒップが大きく見えてしまっているのです。シチュエーションをよく理解し、何のための写真なのかを考えないと独りよがりなものになってしまうのは、何の仕事をするにしても気を付けなければならない事だなあと改めて感じた事でした。

 

  写真を撮るために、相手の内側に踏み込んでみる。その結果、被写体との間に特殊な関係性が生まれることがあります。写真を撮るためにレンズで相手の内面を覗く小浪さんの写真は、被写体との心的な距離感によって写し出されるものも変化していて、相手の持つ個性や思想に自分が瞬間的にどう反応するのかが勝負で、共に過ごす時間の中で被写体から受けた感覚、感情をそのまま写真に封じ込めています。これまでの羽生さんの写真集は彼のカリスマ性をより引き出そうとするものが多く、夫は「アイドルの写真集だな」と冷ややかに一瞥しただけだったけれど、グッチの写真展は羽生さんを撮っている小浪さんの作品展であり、そこに写っている心もとない表情や無邪気な笑顔の羽生さんと兄弟のような関係性を作り、自分の今までの写真も展示することで「目の前にあるものを記念碑的に写し取るため」の写真ではなく、「自分がどのように世界を見ていて、その世界といかに関わるか」という彼のスタンスを強く感じるのです。

 人間としての彼らの対峙であり、映し出されているのは写真家小浪次郎が感じている人間としての表現であり、彼の手法で彼の感覚で自由に泳いでいる羽生さんを切り取っているのです。そして小浪さんが深く影響を受けたティルマンスのエッセンスや鼓動まで知ることが出来るというのは素晴らしい体験です。

 人と人は関わりながら生きている。年を取ってきて、身体も動きにくくなり、各所に故障が出てきて思うことは、一つ一つの出来事や感情の揺れにとらわれ過ぎないことで、それで悩んでも今更どうにもなることでないなら、高い目線で俯瞰して見ようと思っています。高い空の上を飛ぶ鳥の視線。私は小さい頃布団の中で妙な頭の使い方をすることがありました。「わたし、わたし、わたし…」と心の中で唱え続けていると、私という言葉の意味が消滅して突然意識が宇宙のような空間に入り込み、自分が誰だか、今がいつなのか、私は存在しているのか全く分からなくなるのです。それはとても恐ろしい事で、自分の存在がわからなくなれば狂ってしまうし元の世界に戻れない、恐怖がつのって来ると今度は必死に自分の名前を唱えて自分という体の中にやっと戻るのです。

 こういう特殊な性向は、外国人と一緒にいる時とても役にたち、私が相手の中のものを知ろうと様々な努力をしているとレビューに書かれたことがありました。村上春樹の「羊を巡る冒険」の中の、人生に目的を持って何かをさがすことが出来ればいいが、その前にいったい何を探せばいいのかわからないという文章に、はっとしたのだけれど、自分にこだわることなく、相手との関係の中で自分が出来ることをして、それを投影していけばいいということがやっとわかってきました。苦しくなった時には、おまじないのように「俯瞰して見る」と唱えていて、英語で何というのか調べたら、俯瞰は "bird's eye view"だったのです。

  鳥になれ おおらかな 翼をひろげて 雲になれ 旅人のように 自由になれ     こんな歌がありました。