七月になりました。昨夜からずっと雨が降っていて、風がうなっています。ベッドの上でゴロゴロしながら、夫がダイソーで買ってきた湿度計の数字を眺めています。一階が整骨院、二階が義父母の住処、三階が私達5人が住んでいた時代のことをだんだん忘れている私は、義母が心房細動で入院した時にフローリングにした客間に入れた介護ベッドの上で、天井板の素晴らしい木目を見ながら、贅をつくした家だということを今更ながら感じています。
最近いらした方が「広い家ですね」というけれど、子育てが終わり親も看取り終わると残った夫婦二人では広いと感じて、家を処分して手軽なマンションに移る高齢者も増えています。エアビーの着物体験で治療室と待合室のある一階を使い始めて6年、コロナ禍の沈黙もあったけれど沢山の外国人がここを訪れ、様々な出逢いを繰り返してきました。パリオリンピックを控えてスリなどが集結しているフランスは、選挙の動向が気になり、アメリカは二人の高齢者が、東京では沢山の候補者が誹謗非難の言葉を繰り出しています。
湿気も気温も高い梅雨の時期、毎朝泣きながら保育園に連れられていく子供の声を聞きながら、若い夫婦は共稼ぎでないと子育てできないだろうし、これから何が起きるかわからない情勢の中で信じられるものがどんどん少なくなっていき、買い物も限られてきています。夕方偏食の夫のために小肌と穴子と鯵の寿司と、夏バージョンの浦霞の酒を買って帰ってくると、郵便ポストに「快慶作品集」が入っていて、夕食後若き佐々木香輔さんの写真を堪能しました。ページをめくるたびに現れる快慶の仏像のインパクトは想像をはるかに超えていて、思わず「わあ」と声が漏れます。文章も全部英訳がついていて、これは外国人に見せるべき本だから、まず私が熟読して自分のものにしなければならないと思うのです。
豊かな知識はこれからの時代、どんな財宝にもまさる価値となるのですが、本当に大切なのは知識そのものに関する理解を深めておくことです。古代ギリシャでは知識を三つに分けていて、言葉を通して受け取る知識、人間の理性に働きかける知識をマテシスといい、人間の言葉を越えた天からもたらされる知識、多くの場合瞑想などを通じて啓示的に与えられる知識のことをグノーシス、言葉と言葉の間から感じ取る知識、行間を読むことではじめて受け取れる知識、言語を超えた波動としての情報も含めた知識をパテシスと言い、これら三つの知識を自分の中で統合して初めて理想的な人間になれると信じられていました。これらの知識のトリニティが新しい時代を生きる力になるのだそうです。
佐々木さんの仏像写真を見た時、これまでもたくさん見て来た仏像と違う感覚を持ったのは、マテシスを経て、グノーシスを経て、佐々木さんが撮っている写真にはパテシス、言葉と言葉の間から感じ取る知識、行間を読むことで初めて受け取れる知識、言語を超えた波動としての情報も含めた知識、彼は「余白」と言っているけれど、仏像に対する視線の持って行き方が「とても個人的な」気がするのです。羽生さんを撮った小浪次郎さんもそうだけれど、一番初めに取ったお父さんの写真の連作が彼にとっての原点だった、個人的な取っ掛かりが永遠につながっていく。
佐々木さんと二人で写真展を開いた六田知宏さんは私より2歳上で、奈良で生まれ小さい頃から祖父に手を引かれ仏像を見ていたという方で、運慶の写真集を出し、佐々木さんは快慶集を作ったのですが、年齢もずいぶん違うけれどとても対照的なのです。若い時から仏像展に良く行っていた私は、六田さんの写真は多分よく見ていたのかもしれないのですが、目に見えないものが現れる瞬間というものが在り、それをキャッチする偶然を大事にする、そして被写体である仏像を、仏師が目指したであろう状態で撮影できるようできるだけ工夫たいとおっしゃっていました。
それに対して佐々木さんは、仏像写真にとっての陰影とは、想像のための余白と考えていて、人は見えないものを頭の中で思い巡らせ想像しようとし、なにも見えない陰影の暗闇にこそ、肉眼では見ることが出来ないものが浮かびあがって来る、祈り、歴史、記憶、こころなど、仏像を見るということは、そうした見えないことを見る行為でもあるというのです。この仏像の写真たちは、佐々木さんが見た、感じた仏像へのアプローチであり、個人の深い視線が永遠につながる、これは卓越した技術の上に立つ、彼の祈りであり、こころなのでしょう。
柴又のお寺の仏教彫刻の前で、私はゲストと宗教の話をします。両親は信仰深いけれど、私は何も信じないという若いゲストに、佐々木さんの仏像写真を見せたらどんな反応をするのか、今までの仏像写真だったら神秘的だとか永遠の無を感じるとか心が安らぐというような感想のような気がします。でも、佐々木さんは最後にこういうのです。
写真は光を用いて世界を切り取ります。そして被写体にあたった光+は、必ず陰影を作り出します。その真っ暗闇の空間に写し出されるものは何か。
私はその暗闇を注視しながら、これからも写真を撮り続けていきたいと思います。
偏見や固定観念のない新鮮なまなざしで世界を眺め、この混乱の時代に川を超えろ、川を渡る経験によってはじめて時代の本質を理解し、時代を動かす普遍的なシナリオを引き出すことが出来るのかもしれません。依存するものが完全になくなった時にはじめて人間は本来の力を発揮できるように創られている、本当のチャンスは何かが壊れたあとの瓦礫に中にこっそりと隠れているものなのであれば進んで行くしかないのです。
この家は城だ、私は今そう思っています。着物をまとい、弓矢を整え、刀を置き、鎧兜を背に畳に座す。仏壇の中のお釈迦様の彫刻はどんな陰影を持っていらっしゃるのでしょうか。沢山の祈りや記憶や心を残していかなければならないのです。