京都清水寺 千手観音像

 毎日30度超えの暑い日が続きます。高齢者は冷房を入れて休むようにと言われ、涼しくした部屋で過ごしていると、佐々木香輔さんの快慶集のカバーがずれて、表と裏の表紙にも写真があることに気づきました。カバーを取ってみると裏は東大寺の「僧形八幡神像」で端正なお坊様の横顔のだと思って見ていたらそうではなくて、東大寺の鎮守八幡宮の御神体であったものが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈によって東大寺に移されたもので、八幡神が髪を剃髪して、黄衣の上に袈裟をまとう僧侶の姿をした神像で、快慶作のこの像を正面から写した写真はたくさんあるけれど横顔というのは見たことが無くて、生々しいインパクトを受けました。裏がこうなら一体表はどうなっているのかと本を反対に置き直してみた時、絶句しました。スマホで撮って写メをあげずにはいられません。なんだこれは!佐々木さんは何を撮っているんだろう。光を当てて撮るから、何が写るかシャッターを切る時わからないという文章を読んだことがある気がするのだけれど、何を撮ろう構図はこうでアングルはこうでと考えながら中心になるものを考えるという写真ではない。頭はキレているし耳には小さな仏様が入り込んでいる、中途半端にたくさん出ている手はそれぞれみんな違っていて、乱雑に伸ばされ、ものをつかみ、目線の先には小さな仏像があるのです。京都清水寺千手観音像。なのです。

 私はこれまで何をみてきたのだろうか。お寺に入り、並んでいる仏像を次々に畏敬を込めて眺める。あまりに沢山ながめすぎて、トータルでこれが仏様だという感情しか持てませんでした。でもこの佐々木さんの写真は造形です。彫刻表現を自分の感性で切り取っている。何をどう思っていいのか混乱して、言葉が浮かばず、お顔から出るように見える沢山の手は一体何なのか皆目見当がつかなくなった時、千手観音という名前に気が付きました。

 千手観音の手が沢山あるのは、多くの迷える人々を救うために変身した観音様の一つのお姿であり、絶対に救いたいというその覚悟の現れです。その千手観音の千の手のひらには眼がついていて、千の手にある千の眼で、困っている人をくまなく探そうとしているのです。限りない慈悲を表す菩薩で、千の慈悲の眼と千の慈悲の手を備え、生あるものを救って下さる。

 正面から見たら何のためらいもなく心から拝めるのに、この横から見たお姿は何なのかと考えあぐねている時に、もしかしてこれは今まで来た千人以上のゲスト達かなと気が付き、私もこの中の手の一つで、何かを持ってみんなと一緒にいるのだと思えてきました。こうやって人間は一緒になって救われて行く、宗教とか仏教とかいう問題ではなく、生きていく道なのでしょうか。これから来るゲストに問いかけていきたい問題です。