新盆

 時間が流れています。昨日はお墓掃除に行こうと思っていたのだけれど、雨が降っているのと金曜日なので道路が混んでいると夫が言うので、今日迎え火を焚く前に八柱霊園に行くことにしました。仏壇を掃除して義母の新盆用の白い提灯を飾り、8個のお盆提灯を出してしつらえ、頂き物の桃やスモモをお供えしました。きょうはおはぎやそうめん、枝豆を用意するつもりでいたら、姪から連絡があり、日曜日に新盆のおまいりに来るとのこと、有難い事です。義母のお母さんが亡くなったのは7月12日で、仏壇の前で倒れたと聞いていて、お墓参りは延期したのでうちの仏壇にお経の字入りのお線香を灯して拝みながら、このおばあちゃまも実母も自分の家ではお盆の供養はしてもらえないから、場所は違ってもここで手を合わせようと思います。

 提灯の組み立てを手伝ってくれた夫が、仏壇の中でずっと真ん中にある義母の位牌の位置を変えようと言って、義父を真ん中に右に実母、左に義母の位牌を置きました。お盆にはご先祖様が帰ってくるのだけれど、義母が一緒になるのは初めてで、お嫁にきて40年近く義母とお迎え火を焚いてきた私は、なんだか複雑な気持ちでいます。義母が施設に入ってからはお盆の時期に来たゲストが着物姿で仏壇で拝んでくれたこともあり、最近はしっかりこういう行事をする家庭も少なくなってきて、希少価値の文化となってきている気がします。

 昨日長女から電話があり、日舞用の着物を探しに帰ってくるときに、夫の好きそうな食べ物を買ってきてくるといい、いろいろ話していると今年は浴衣の売れ行きが芳しくなく、外国人も本格的な浴衣は敬遠してガウンのようなものを欲しがる傾向にあるそうです。今日本にたくさんやって来る外国人の層がずいぶん変わってきているのは私も感じていて、とてもマニアックで自分で浴衣を着ることが出来る外国人がお店で出会って仲良くなる風景を見ていると隔世の感があるそうで、着物に対するモチベーションが二極化している気がします。ベトナム人や中国人が経営しているレンタル着物ショップで振袖や留袖を借りて着た若い女の子たちが、柴又で傘など持って延々と写真を撮っている風景を見かける私は、単に着物が着たいだけだったら私の体験は選ばないだろうし、この暑さを経て再開するのなら、もっとマニアックになるべきだと感じています。

 お墓参りに行った後いつも立ち寄るステーキ屋さんは連休の初日で家族連れで満席で、ちょっと待ってから席につこうとすると、可愛らしい奥さんが赤ちゃんにミルクを上げていて、若い旦那さんが上の女の子と食事をしている姿が目に入り、夫と向かい合って二人で黙々とハンバーグを食べながら、自分の子供たちが家庭を持って孫たちと食事に行くということが想像できないのが不思議なのです。あまりに世界が混沌とし過ぎていて、自分の子供たちを育てる時も自分が成長する時も不安だらけで先が見えない私は異常なのかもしれないけれど、炭鉱のカナリアのようにきな臭い匂いをずっと感じ続けています。それが何だか知るためには、宮崎駿監督が言うように、自分の奥底から自分の真実を語らなければならない、それをしなければいけないのだし、レベルは違うけれど私もそう思うのです。

 さっき姪夫婦とお父さんが新盆のおまいりに来てくれて、中堅管理職?の40代の旦那さんと話していて真面目なだけに希望のつかめない疲れを見せている気がして、身体を壊さないように過ごしてほしいと思うのです。義母の新盆に温かい心遣いを戴き、うちのご先祖様、50代で亡くなった夫の妹さんの家族との接触が、かけがえのない文化を伴う心の支えになっているのだから、いろんなことを大事にしていかなければならない。「人間が本当に持っているものとは、頭と心の中にある。他は奪われても残るのは、自分が覚えた知識や技能、心温まる人間関係、そうしたことを大切に行きなさい」迫害され続けてきたユダヤ人の両親が、逃げ惑いながら息子に諭した究極の教えを改めて思い出します。

 今朝は涼しいので、仏様にコーヒーとレーズンウィッチをお供えしました。沢山いただいた気持ちに応えるため、サクランボや桃やスイカを買ってきて、夫が妹さんの仏壇に供えるつもりです。ご先祖様の魂を背中に感じている一つ一つの想いこそが、一番真実に近いのだと義母の新盆は気づかせてくれました。