こんなに気を使ったお盆は私の中では初めてでした。10人の仏様の接待?は慌ただしくも楽しくて、お酒や食事やお菓子やジュースなど供えながら子供用、大人用といただいたものを精一杯だして、夢中でいたら階段も上り下り出来ていることに気が付きました。自分も年を取ってあちこちガタが来ている今、欲もなくおもてなしが出来ればいいと動いていると、これは外国人ゲストが来ている時も同じ感覚で、自分のできることを精一杯こなしている時に、ご先祖様の想いや仏教や文化が、わたしのアイデンティティになっているとしみじみ思うのです。
70年間も生きてきて、自分はいったい何だろうと思い悩みながらやりたい事を探していたけれど、すべてには意味が有ることがわかってきました。自分が考えてきたこと、やってきたことがすべてなのです。でも、どれだけの方々に、どれだけの魂に支えられてきたことか。夕方から雨が強く降り出してきて、八柱霊園に帰るのも大変だなと思って、焙烙に苧殻を折って入れ、そばに牛と馬の人形を置いて、火を焚きました。迎え火の時火の付きが悪くて心配していた苧殻も、袋から出して仏壇の中に立てかけておいたから乾いてあっという間に燃えてしまい、慌てて夫と三回またぎながら、仏様は行きは馬に乗ってあっという間にいらっしゃり、帰りは牛に乗って名残を惜しみながらゆっくり帰るというけれど、今回は大人数だし雨だから馬に乗って早く帰って下さいと念じていました。
火の始末をして階段を上がると苧殻を焼いた匂いが立ち込めています。お盆が終った、ほっとしたけれどさみしい、これまで40回以上やってきた行事だけれど、義母を看取って夫と二人でするのは初めてです。すべてが私の引き出しの中に入っている。外国人が大好きな宮崎駿監督のアニメ「Spirit away」で、ヒロインの千尋が夜お饅頭を食べながら窓から見上げる夜空のシーンを見ると私はデジャブの感覚にいつもおそわれ、そこで流れていく雲を自分もいつか見ていて、そして何かを思っていた、それがいつなのか、過去なのか未来なのかわからないけれど、その意識だけは一緒なのです。カオナシと電車に乗って海の上を進むうち日が暮れて、その景色を座席から振りかえってみている千尋、この感覚も知っている、味わったことがある。こういうことを感じている外国人がたくさんいる、というか、人間は皆同じ魂を持っていると、思える時が多くなりました。ネットやユーチューブでの様々な有益な投稿を見ていると、生れた場所が違い、言葉が違い、環境が違うけれど、みんな迷い悩みながら、生きているということがわかるし、私のところにやって来るゲストがネガティブな感情で苦しんでいれば、私は自分のネガティブさを掛け合わせてプラスになればいいと思ってできる限りの言葉や気持ちを差し出してきました。
十代の彷徨いを経て強い家長制度の家に嫁ぎ、紆余曲折を経て70代になった今、このうちが私に与えてくれたものの大きさに気が付きました。なぜこんな風に生きてしまったのかと後悔の念に駆られることがいつもあったのだけれど、それがあって今があり、ここにいてご先祖様を供養し、外国人と宗教について生き方についていろいろ話合えるのです。何一つ無駄なことは無かった。ありがたい事です。