芸大大学院の卒業式に出席するオーストリア人のユリアの袴着付けをした時に、ホストの奥様から彼女の卒論の抜粋集をお借りしていてもうずいぶん経つことに気が付き、連絡したら昨日の午後取りに来て下って、久しぶりに長い事お話して楽しい時を過ごしました。私より一つ上の行動的でおしゃれでユニークなこの方は、今度はご自分の好きなアメリカの女性画家ジョージア・オキーフの画集を持って下さったのですが、無知な私は「ジョージ・オキーフ」という男性だと思い込んでいて、綺麗な彼女のお写真を見て絶句してしまいました。
今回お借りしたのは<アメリカン・モダンの旗手たち>「In the American Grain」展のカタログで、20世紀アメリカ美術の原点ともいえる初期モダニズムの画家たち五人を紹介する1996年に開かれた日本で初めての展覧会だったそうです。これまで沢山のゲスト達と共に「日本の文化を味わう」体験を組み立ててきて、それぞれの国のアイデンティティを持ったゲスト達が日本の文化の象徴である着物を着た時に、なぜ日本人が着た時とこんなにも違う佇まいになるのだろうかということを私はずっと感じてきました。でも今日の予約はどこからと夫に聞かれ、USAからというと、アメリカ人は文化が無いからなあとつぶやくのを実感として納得していた私にとって、オキーフに魅かれるこの奥様の感性や想いというものが日本人離れしていて、それこそ外国から来るゲストと話しているようで、だからこそ彼女の好きなオキーフのこのカタログ集はアメリカの文化についての重要な考察であることに気が付きました。
ジョージア・オキーフは1887年ウィスコンシン州の農園で生まれ、アメリカの中西部の健康的な地方で育ちました。「社会に健全さを求めることはできないが、自然にはそれがある。自然の美の特質について熟慮するものに、災いや落胆が訪れることはない」彼女が強く影響を受けたアーサー・ダヴは対象をリアルに描くというものではなく、絵画を平面の各部分部分の構成によるものと考え、その調和を追求するというもので、オキーフは生涯かけて「空間を美しく埋め尽くす」という装飾的試みに取り組むことになるのです。彼女の作品のモチーフはほとんどが荒野や自然の風景からのもので、自然の微小なものに注目しつつ対象を大きく引き伸ばすことによって新しい抒情性や造形性が生まれることを意識していました。すべてを本質的な原則に還元し、清潔極まりない優美さが生まれるまで表面を磨き抜こうというオキーフの思想は、ヨーロッパの模倣は無く、力、束縛を解き放つ自由な力があるのです。自然の教えに霊感を受け、基本的なことを尊ぶ思いが反映され、物質主義に反発し直感を精神の象徴であるとし、宇宙的生命力の根源である大自然のリズムの鼓動を感じさせるもの、オキーフは対象物と思想という、ものとの絶えざる交歓を続け、そこから思惟を紡ぎ出していくというアメリカの風土と文化の特質からうまれた、偉大な、まさにアメリカ的な画家なのです。
「私は私が感じたもの、私が探していたものと同等のものを表現しなくてはならない。何かをただ模倣するのではなく」オキーフが繰り返し描いた花は、作品の中心となる場合もあれば、他のモチーフに付属的に描かれることもあるのですが、何と彼女は岡倉天心の「茶の本(The Book of Tea) 」の花に関する部分がお気に入りで、繰り返し読んだと言います。
文化とは何だろう、それは固定されたものではなく、現在進行形の個々人の努力の表現であるのかもしれない。アメリカの広大な大地、何処までも続く地平線、山々。私は東京の川に囲まれた静かな町に生れ育ち、そこから動かない人生を送り、外国も数えるほどしか行ったことがない、オキーフの好きな奥様とは比較にならないような生活です。だからたくさんのゲストが来ると相手の中のあらゆることをしりたくて、入り込もうとする、住んでいるところ、街の様子、空気感、気温、食べ物。アメリカの辺鄙な町から来たロン毛の背の高い若者がいました。学校に通うのも大変で、バイトもできないからお金があまりないと言いながら、紬の着物を着て帝釈様の庭園をじっと見つめていた姿を今でも覚えています。異文化とは自分の中の本来の文化、アイデンティティを呼び覚ますものだと思うし、そこから自分が何を作り出せるかは、どんな仕事をしていてもどんな生き方をしていても、考え続けなければならない。突き詰めて突き詰めて生み出した表現は、人の心を打ち、一生の支えとなるのでしょう。
オキーフが好きで、大きな画集も持っているという奥様の魂の奥底には何があるのでしょうか。アメリカの文化の原点を教えて下さった気がします。