めくらやなぎと眠る女

 村上春樹の6つの短編小説を一つの物語に再構築したアニメーション映画がフランスの監督によってつくられ、日本でももうすぐ公開されます。超自然的なものと平凡なものがこすれ合う村上作品の魅力は、人間の心の奥底の動きを、表面のかすかなさざ波を描写することで物語る、新鮮な視点を与えてくれるところだと彼は言います。自分が原作の行間に読み取ったものに対して忠実であれば、きっと原作自体にも忠実な作品になるはずだし、きちんと行間を読むことで、村上春樹が受けたインスピレーションのエッセンスを見つけたかった。「理性で考えず、あえて感覚に頼る」こと。自身が強い魅力を感じたものに対しても、その根源を頭で考えることはしない。「私が絵を描くときは、最初にインスピレーションやアイデアがあり、その的を目がけて弓を引くようなイメージです。そして、飛んでいった矢の軌跡をひたすら洗練させていく。具体的には、まず私の見たビジョンを描き、さらに別のレイヤーを塗り重ねることでそのビジョンを破壊していきます。世界は美しく、また醜くもあるもの。だから〈美〉の層に〈醜〉の層を塗り重ね、さらに〈美〉を重ねて……納得がいくまで、美醜のレイヤーを何層も重ねていくのです。脚本の書き方もまったく同じで、今回は村上春樹さんの世界を出発点に、自分が感じたものを何層も重ねていきました。衝動と修正、洗練を即興的に繰り返していく作業です」

 短編小説6本を一つに織り上げる作業はいくつかの段階に分かれたといいます。はじめは原作に沿う形ですべての登場人物を追いかけ、5つの物語を作った。次に、数十人ものキャラクターを4人に絞り込んだ。すると、同じ人物が登場する複数の物語が絡み合う脚本に変化していき、そして最終的に、小説それぞれの構造を解体・再構成した全7部の物語ができあがったのです。フォルデスは「複数の短編を組み合わせて長編を作るには、登場人物たちをつなぐ共通の土壌が必要だった」として、この「地震」というモチーフで全編をまとめ、原作小説の「地震」は阪神・淡路大震災ですが、映画では2011年の東日本大震災に置き換えています。

 興味深いのは、本作が登場人物たちのパーソナルな物語であるということです。東日本大震災をモチーフにはしているが、フォルデスが「彼らは地震にトラウマがあるわけでも、地震から直接的な影響を受けたわけでもない」と言うように、物語と震災の間には独特の距離感があります。「登場人物たちはもともと追いつめられていました。彼らにとって、地震は偶然のきっかけではなく、むしろ自らを問い直すきっかけとして“使う”ものだったのです。キョウコは結婚を考え直し、片桐は“かえるくん”というもう一人の自分を通して自分の価値を再発見する。そして小村は、自分自身の中にある空洞を外の世界へ開いていきます」

 私のベッドサイドには、ずっと前から村上春樹の文庫本「神の子どもたちはみな踊る」が置かれていて、映画に使われたいくつかの短編が載っています。本棚にはツタヤで買った中古の「バースデイ・ストーリー」があり、村上春樹の翻訳したアメリカの小説に交じって、書き下ろしの「バースデイ・ガール」が私にとっては一番面白くインパクトがあって、それも映画に使われています。初老のレストランのオーナーが、自分の夕食を運んできたウェイトレスの女の子に、誕生日のお祝いに一つ願い事をかなえてあげるといい、彼女の願いは一風変わったものだったのでオーナーは少し驚いた風でしたが、それを叶えてあげたのです。

 願いの内容は小説では明らかにされないけれど、年を重ねた彼女は「人間というのは、何を望んだ所で、何処まで行ったところで、自分以外のものにはなれない」というのです。人間は結局自分が本当に必要とするものは最後まで分からず、どんなに富や名誉を持っていても最後には自分が埋められるだけの地面だけが在ればそれで事足りるというトルストイの小説がありました。

 刻々と変わる予測できない政治情勢をみながら、世界は猛烈な勢いでチェンジしていることを体感しているけれど、異常な暑さの中で時々意識が朦朧とする中で、自分自身を保ち見つめ、自分の価値を見出してしっかり生きていくことが、一番大切で、生きるために必要なものが何かを知ること、人生の本質的な価値を理解し、心の豊かさを見出していけるように努力することしかないと思っています。

 昨日やってきた娘に着物業界の話を聞くと、今は花火大会のために浴衣を買おうと思わなくなってきたし、以前ほど訪日外国人も購入しなくなってきて、茶道を習っているとか着物を着て美術館へ行くとか、そういう方々が暑くても頑張って着物を着ているそうです。異色の感覚を持つ娘は、例えば帯締めを革の細いベルトにしてみるとか帯にバックルのようなものを付けるとか、新しい商品の開拓などにも携わっているようで、同じものを同じように使うことに飽きてしまった若い層が、面白いとかかっこいいとか思えるものを作り出していけば、もっと楽しくなる気がします。

 フランス人が日本の小説をもとに自分の感覚でアニメ映画を作り、その新しい解釈と表現に日本人や何より作者自身が「面白い」と感じるということは、世界にはいろいろな可能性が沢山残されているのだろうと思います。去年マサチューセッツから来たアメリカ女性の娘さんに子ども用の着物やアクセサリー、布地を送ったら喜んでくれて全部の品々を広げた前に座っている彼女の写真が送られて来ました。いろいろなきっかけが自分の中の何かと結びついた時、面白い化学反応を起こすことがあり、それがまた新しいものを生みだして、世界を豊かにしてくれる、私はそれらをいつか見ることが出来るのでしょう。