祈り

 毎日あまりに暑くて体調を維持するのも大変です。今日は朝から目が回り動悸が激しくて、どうなってしまうのかと不安になりながら、具合の良い時に銀行とスーパーへ行きましたが、午後に青戸の呉服屋さんに行くのはやめました。紬の陣羽織が出来ているとずいぶん前に連絡をいただいているのにずっと行けず申し訳ないのですが、冷房を入れて静かに休んでいると救急車のサイレンがよく聞こえてきます。寒いのも暑いのも度が過ぎているけれど、それもこれもみんな自分達が犯してきた罪が重なったものなのだから、何とか凌がなければなりません。

 血圧の薬を飲むと頭がぼーっとしてきて思考能力がなくなって、そんな時はYouTubeの名言集やブッダの言葉などを見て、頭に刺激を与えています。今更ですが自分の生き方に後悔ばかり覚えたり、ずいぶん前は自分がうまれてからのどの時点に戻れば、後悔しない普通の生き方が出来たのかと悶々と悩んで眠れぬ夜を過ごしたことも多かったのです。自分のことだけでなく、子どもたちの育て方も迷い続けて、いまだに幸せとは何だろうと自問し続ける時、YouTubeの言葉がグサッと刺さってきました。

 「愛することの本質は与えることにある。まず自分自身を深く愛することからはじめなさい。深い自己愛があってこそ、傷つくことは怖くなくなる。愛を与えることに集中して見返りを期待しない。愛することへの喜びを再び見出す努力をする。目の前のことに集中すれば、未知は開ける。一歩ずつ進めばいいのです。人生のすべてを見通すことはできないけれど、各々の一歩が次の一歩を照らしていく。小さな慈悲の積み重ねがやがて大きな変化を持たらす。」

「この世は馬鹿にされる人ほど成長し、馬鹿にする人ほど落ちていく。違和感とは心からの最後の通知である。何もない日にも幸せは詰まっている。失敗しなかった日というのは、何もしなかった一日。人を信じるという事は、相手への期待ではなく、自分への決意。子供は親の言うことを聞かなくても、親の生き方は見ている。人生に失敗しないと、人生は失敗する。自分らしくあれ。自分を責めない。」

 今まで歩んできた道を後悔するのではなく、それをして来た自分を俯瞰して見て大きく認め、学んできたことを生かしながら、前に前に進んで行けばいいのです。自分を愛する。子供たちに一番伝えたいメッセージです。

 帝釈様に傘を忘れてしまい、翌日夫の車で血圧の薬をもらいに病院へ行ってから、午前中に帝釈天へ回ってもらって境内に入った時、朝から参拝している女性の姿を見かけました。何百回とゲストとここを訪れている私ですが、説明や段取りに追われて手を合わせじっと祈るという事をしていません。ゲストには仏教徒ですかと聞かれるとそうだと答えるけれど、家には神棚も仏壇もあるし、娘たちはキリスト教の高校に通っていたから讃美歌も聖書も馴染みが深いのです。

 今年は義母の新盆で、沢山提灯を飾りご先祖様を全員お迎えしながら思ったことは、お葬式から始まった一連の行事は深く重く温かさに満ちた意味のあるもので、仏陀が生涯かけて考え続けた人間の生き方を平易に解き明かしているものが仏教だという事です。着物や浴衣を着た外国人たちを柴又に連れて行き、参道や寺や仏教彫刻を紹介しながら仏教というものを体感してもらうけれど、そこでは祈るという行為には至らない、それは私も同じことなのです。儀礼的に手を合わせてこれまで過ごしてきたけれど、ここまで深く考え調べ説明しても祈るという気持ちが分からないでいました。

 実母が元気だったころ、神奈川の山の上のお寺に行き、墓掃除した後で母が大きな声で自分の健康や幸せのことを延々と仏様に祈っているのを聞いて、私はかなり違和感を持ちました。祈りは他者に向けられて初めて成就するものだと私は感じていて、結婚してから初めて知った沢山の仏教行事や墓参りを通じて、先祖供養というものがいかに大切か、毎日お線香を灯しておまいりすることがどんなに心を和らげてくれるかわかってきました。後妻の義母が先妻の入っている墓には入りたくないと言っていても、ご先祖様とクロスする戒名を付けていただき、仏壇の中で静かに修行している義母を囲む位牌の魂が、義母に対して祈っていること、そして後ろに木彫りの阿弥陀様がいらっしゃる、これは永遠の宇宙の象徴であり、それを守っていける私はなんと幸せなのだろうと思うのです。

 祈りはこの仏壇の宇宙を入り口にして、広い広い空間へ広がっていきます。祈りは自分のために捧げるものではなく、他者のためのものです。愛することの本質は与えることにあり、そのためにはまず自分を深く愛せる存在に高めなければならない。深い自己愛に到達できれば、そこから無限に進んでいけるのでしょう。私にはこの土台がある。義父母とうまくいかず、苦しみ抜いた長い日々のなかにも、いつもご先祖様を通しての深い祈りが私達に注がれていたのです。