8月になりました。昨夜は雨が沢山降り、夕方ゲリラ豪雨になったところも多い様で、朝植木に水やりをしなくていいのは助かるけれど、気象体系が狂っていることを感じています。昨日は心臓も痛まず眠れてほっとしていますが、爆弾を抱えているような体だなと思いながらオリンピックの結果をネットで見ると、見出しが真実を語っていないものが多く、ここにも偏向捏造精神が蔓延しているようです。
アメリカの大統領選挙もバイデン氏が辞退してから混乱してきて、フェイク動画や攻撃サイトが出回り、本当に何を信じてよいのか分からない世界になり、新聞を見ていたら離婚調停はAIが良いという記事を見つけ、もう私たちはある一線を越えて、今までにない道を歩いている気がしています。義母の相続が終り、夫は子供に残す財産の段取りをはじめ、足も心臓も歯も問題を抱えているボロボロの私は新しいコーヒーメーカーの使い方を夫に教えたり、いらないものを処分したり、何が起こっても大丈夫なように準備をしています。
エアビーをはじめてからのゲストとの交流で得たいろいろなものを、良い形で残す努力をしようと思います。どんな形にするのが良いのか、素材は揃っているので、参考にするものを見ながら、これまで来てくれたゲストの気持ちや魂を受け止めて昇華して捧げようと思うのです。「日本の息吹」という国を守る精神を語り続ける雑誌を夫が購入していて、表紙絵が昭和初期の日本の庶民の風景を描いている、私には懐かしいものばかりで、今回は子供たちが青空のもと原っぱで野球をしていて、額の汗をぬぐいながら水道の水を並んで飲んでいるのです。青い空、入道雲、やかんの麦茶、縁側で食べるスイカ、蚊取り線香、プールへ行った後の畳の上での昼寝、朝のラジオ体操、町会主催のお楽しみ会、田舎への帰省、子ども心に様々な思い出が蘇ります。
孫7人がイキガイですという年下の友人の年賀はがきを見ながら、その幸せがいつまでも続きますようにと返信している私の心は何だろう、嫉妬かしら諦念かしらと思いながら、孫がいたとしても彼らの未来が全く見えないことや、取り巻く環境の激変に飲まれず進んでいくためには、まず自分自身がより強くあらねばならないし、得るためではなく与えるために何ができるかを常に考えなければなりません。私の手段は着物とそしてその着物を着た今までのゲストとの触れ合いです。彼らが来た時は写真をたくさん撮って後で送るけれど、それは個人的なものだし、それを公にしてもいいというゲストの写真はエアビーの体験のサイトに出しているけれど、写真がない方が内容が彷彿としてくると信じ、内容を練り上げていかなければなりません。
プロに転向してから、羽生選手の写真集が毎月発売されています。カメラマンが違うと全く違う様相を見せる彼に、私は佐々木香輔さんの写真集「快慶」の仏像たちの姿を思い浮かべるのです。仏像の写真集は数え切れないほどあるし、仏様はいつもそのお寺にいらっしゃいます。たまに博物館の展覧会で地方に出張し、広いフロアに飾られて四方から眺められるようにライトアップされているけれど、私達はなかなかその魂と自分を同化させることはできないのです。でも不思議なことに、佐々木さんの撮った写真の、初めて見る仏様の表情は、カメラマンの表現を超えて、壁の向こうの世界があることを教唆してくれているのです。「街とその不確かな壁」世界の境目。その存在を知っている僅かな人々は、その感覚を再現し表現しようとあらゆる努力をしています。
自分が何を表現できるか、自分の個性とは何か、自分らしく生きるとはどんなことか。そんな事について考える学校での勉強があったような気がします。心身共に未熟な自分が自分のことばかりを突き詰めて考えても、ない袖は振れない、それよりも自分のやりたいことがあれば突き詰めてやっていけばいいのでしょう。スケボーでは中学生や高校生が技を磨いてあっという間にメダルを取り、苦節何年の先輩が苦戦する中で、20歳くらいの若者か体操や水泳で世界の頂点に立ってしまうのです。問題はそこから先にある。頂点に立ってからの自分の哲学を作り上げるという事の重大さを知っているのは羽生選手です。一つの目標に対してどれだけ魂を込められるか。ゲストと共に過ごす4時間で、私は彼らの中に入り込み、何を望むが、何を感じたいか、何を抱えているのかを知ろうとします。私が彼らに差し出す日本の文化や仏教、自然、そしてささやかな交流を通して、私は自分のありったけを出します。知りたい、感じたい、救いを求めているゲストもいる。分からないだらけのゲストもいる。でも私は情熱を持って差し出し続けます。生きるという事、それに対する祈りみたいなものが、常に存在しているのが、自分が表現したい事の根幹にあるという羽生選手は、表現を磨いていき自分と常に向き合い続ける時間が増えれば増えるほど、自我の強さが磨かれ、自分の根幹がどんどん確立されて行く感覚があると言います。
才能が有り、たゆまぬ努力をして栄光を勝ち取った後もそのさなかも、幾つもの試練やアクシデントがあり、それを必死で乗り越えるたびに新しいものを生みだす彼に油断や慢心はありません。あれだけ妨害や誹謗中傷をされたら、油断などという言葉は吹き飛んでしまう、いつも断崖絶壁を見ていて、乗り越えるのではなくその先を見ながら新しい世界を作るという、作り上げたいものは「いいもの」だという、その意識を持ち続けているのです。
娘婿に戴いたイタリア製の麻の半袖シャツを着た夫をみて、その素晴らしい質感に驚いたのだけれど、うちに来るゲスト達も最高級の着物や浴衣や紬を着てくれています。暑くてたまらない時も、苦しい時も、本物、いいものを食べ、まとい、住むというシチュエーションは限りなく心を幸せにし、有難いという気持ちにさせてくれるのです。
夫が家の細かいメンテナンスをしながら「本当によくできた家だな」と感心しているのですが、毎晩一番いい和室の電動ベッドに寝ている私もそれをいつも痛感しています。これだけの家を建てるには財も技術も必要で、今風の建築にはない文化とアイデンティティーがあるのです。この家に住まわせてもらい沢山の着物を戴き、外国人に着せて、仏教とは何か、文化とは何かと話しながら寺町を散策するというツールを磨き上げています。
ゲストも少なくなり、少数精鋭主義になった今、磨き上げる時期だと考えています。それにしても一体私たちは何を求めているのでしょうか。何のために必死で働いているのか。成功とは何か。本当の幸せとは欲望や現実から解き放たれ、自分を見つめる。心を混める。雑念を消す。急がず焦らずただ積み重ねる。今ここにあることの幸せ、安らぎ。執着から解放される。人が支え合って生きている。本当に大事なのは自分の内なる心を見つめ続けること。宮崎駿監督が80歳を過ぎても己に課している言葉です。
自分の内なる心を見つめ続ける。八月はその月日なのでしょう。途轍もなくレベルを上げなければなりません。記録としてブログを残す。そんな甘っちょろいものではいけなかったのです。新しい振り付けで新しい作品を作っている羽生さんの途中経過の動画がアップされています。帽子を被って鏡張りの練習場で試行錯誤している姿を見ると、自分の中から湧いてくるいろいろな思いをどう発展させていくか、自問自答し続けることでしか解答は出てこないと思うのです。