尾形光琳

 「パッションフルーツ食べる?」膝が痛かった時、何回も家に来て体中のメンテナンスをして下さった少年野球の監督夫人からこんな連絡が来ました。「食べる!」と返信すると、早速暑い午後に来て下さり、受け取ると体を見てあげると言って、ベッドに横になるように言うのです。ひと月前にスーパーの入り口で偶然出会い、「膝が痛くて…」というと、駐輪場の壁際に私を立たせていろいろ簡単な施術をして下さり、それから本格的に自宅で治療を3回して体の歪みを矯正したのですが、今度は心臓が不調ではらはらしながら暮らしているこの時に、来て下さるという不思議さに彼女の霊力を強く感じていました。

 今私は内科、整形外科、眼科、歯科と病院巡りをしているけれど、何処も無機質で一定のマニュアルでこなされている感があり、とてもよく診察し治療して下さるにも関わらず、医療制度や製薬会社とのしがらみ、システムの変更などに追われ、何かに絡めとられて脅かされている感が強いのです。顔がない、顔を出せない、パソコンの画面を見つめる、温もりなど必要ない所を毎日回っていて、結果が良くないと暗い気持ちに落ち込んでいた私に、あたたかい手をかざし、気を送り、身体全体の歪みを矯正しながら血液やリンパの流れを促して、30分以上かけてあらゆる場所を触り探り、ご自分の力を私の体にあたえてくださいました。光の中にいる。大きな流れの中にいる。心臓が痛くなったらどうしようと怯え、クスリを持ち歩くこと自体が大きなストレスとなり、自分を苦しめていたのです。一体私たちは何に怯え、何を見ないようにしているのか。

 久しぶりに冷房を入れた一階の仕事場のBGMは久石譲さんの映画「君たちはどう生きるか」のサウンドトラックです。宮崎駿監督の思考経路と久石さんのインパクトのある短い曲が聞こえてくる中で、人の手の温かさと何かの魂を感じる、究極の救いであり、癒しなのです。人に与えること、相手を救うことがすべてで何の見返りも求めす祈り続ける、祈りはひたすら純粋なものにしなければならない、そのための努力。

 うつぶせになった私の体を治していた彼女が、「尾形光琳だ」と突然棚にあった美術書に目を止めて呟きました。古い本で、私の着物恩人の和裁師さんの形見なのだけれど、外国人のゲストが見るかと思ってここに置いてあるけれどなかなか手に取るところまではいかない、上野の博物館に行けば沢山の古典美術の陳列が見られ、感動するけれどあまりの多さに記憶がなくなってしまうことが多いのです。東京のはずれにある私の家、そこにあった一冊の古い尾形光琳の美術書、それが大好きだという方、お礼にさし上げるものが在ったと私は嬉しくなり、持って行っていただきながら、私のエアビーの体験もこのようなものだとふと思うのです。

 心臓の不安も足の痛みも薄れ、すべてが正しくものを見ることが出来なくなったことから出てくる妄想であり苦しみであると改めて悟り、玄関で「過去を思い煩うことなく、未来を不安に思わず、ただひたすら今を真剣にいきる。そして出てくる言葉は、ありがとうのみ」というと「そうだよ」と返してくれた彼女を見送って、私は晴れ晴れとした気持ちで近くの鳥屋さんで夫の晩酌用に焼鳥と美味しい唐揚げを買いました。着物姿の外人さんを見慣れている鳥屋のおにいさんが「着物着る方来てますか」と尋ねてきて、暑くて月に二組くらいと答えて帰ってくると、9月にクウェートから医師夫婦が予約してきました。ペルシャ語、アラビア語、英語を話すとあるけれど、クウェート人は初めてです。私達はとても興奮して予約しましたとあると、なんだか妙な気持ちがします。与えられているものの大きさを感じながら、自分のできることを考えています。