デンマークパパと何回かやり取りしているメールはエアビーのサイトを使っていて、さすがにプライベートな私信を続けるのはまずいなと思って、Gメールアドレスを知らせ、これは村上春樹が大好きな私が彼の名前と小説の題名の一部を使って作ったもので、彼はデンマークのアンデルセン文学賞を取った小説家だということを添えました。パパが春樹さんを知っているかどうかわからないけれど、文学賞を取った時のインタビュー記事がプリントしてあり、それを読んでいるとデンマーク人のパパと知り合っているからこそ、この内容がとても重いものとして受け取れていることに気が付きました。
フィンランドに住むイタリア人のガエタノともずっとメールのやり取りをしているけれど、彼はカトリックで神様の慈悲のもと暮らし、私のこともいつも祈ってくれていますが、デンマークパパはもっと現実的で透徹した温かい深い目を持っている気がします。プロテスタントでストイックでシャイで誠実で、ガエタノとは正反対のキャラクタ―なのだけれど、メールのやり取りをするたびに、共通の感覚があるような気がして、私は少しずつ彼に対する問いかけを増やしています。
春樹さんのインタビュー記事に、アンデルセンが書いた子供向けでない小説のことが詳しく書いてあり、おとぎ話の枠組みを捨てて大人向けの寓話の形式を使って、自由な個人として、大胆に心のうちを吐露しようとしているというのです。「影」というこの小説の主人公は北国の故国を離れて、南国の外国を旅する若い学者で、思っても見ないあることが起きて、彼は影をなくします。勿論どうしたら良いかと困惑しましたが、何とか新しい影を育て、故国に無事帰りました。ところがその後、彼が失った影が彼の元に帰ってきます。その間に彼の古い影は知恵と力を得て独立し、今や経済的にも社会的にも元の主人よりもはるかに卓越した存在になっていました。影とその元の主人は立場を交換し、影は今や主人となり、主人は影になりました。影は別の国の美しい王女を愛し、その国の王となります。そして彼が影だった過去を知る元の主人は殺されました。影は生き延びて、偉大な功績を残す一方で、人間であった彼の元の主人は悲しくも消されたのです。
春樹さんは「影」を読んだ時、アンデルセンは何かを「発見」するために書いたという第一印象をもち、あなたの影があなたを離れていくというイメージを持っていて、この話を出発点として使い、そしてどう展開するかわからないまま書いた気がすると言います。彼自身の影、見るのを避けたい彼自身の隠れた一面を発見し、見つめ、実直で誠実な書き手としてアンデルセンはカオスのど真ん中で影と直接に対決し、ひるむことなく少しずつ前に進みました。
春樹さんは小説を書く時、物語の暗いトンネルを通りながら、全く思いもしない自分自身の幻と出会うと言います。それは自分の影に違いない。影から逃げることなく、自分自身の一部の何かのように、内部に取り込まなくてはならない。そこで自分に必要とされるのは、この影をできるだけ正確に、正直に書くことです。
でも、それは影の力に屈することではない。人としてのアイデンティティを失うことなく、影を受入れ、読み手と共に、この過程を経験し、そしてその感覚を彼らと共有する、これが小説家にとって決定的に重要な役割です。アンデルセンが生きた19世紀、そして私たち自身の21世紀、必要な時に、自身の影と対峙し、対決し、時には協力すらしなければならない。それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。勿論たやすいことではありません。時には危険もある。しかし避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することは出来ない。最悪の場合、主人公の学者のように自身の影に破壊されて終わるでしょう。
自分の影に対峙しなくてはならないのは、個々人だけではありません。社会や国にも必要な行為です。ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影があります。明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ポジティブなことがあれば、反対にネガティブなことが必ずあるでしょう。時には、影、こうしたネガティブな部分から目を背けがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除おうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影を作らない光は本物の光ではありません。
侵入者たちを締め出そうとどんなに高い壁を作ろうとも、よそ者たちをどんなに厳しく排除しようとも、自らに合うように歴史をどんなに書き換えようとも、自分たち自身を傷つけ、苦しませるだけです。自らの影と共に生きることを辛抱強く学ばねばなりません。時には暗いトンネルで、自らの暗い面と対決しなければならない。そうしなければ、やがて、影はとても強大になり、ある夜戻ってきて、あなたの家の扉をノックするでしょう。「帰ってきたよ」とささやくでしょう。
傑出した小説は多くのことを教えてくれます。時代や文化を超える教訓です。
これは2016年の文章で、8年前のものです。この頃はそんなに感じられなかった影というものが、今はすべてを覆い尽くし、世の中を混乱させ、それが影だか本体だか区別がつかない状態になっている人間たちを、暑い太陽がいつまでも照らし続けています。デンマークパパが来てからいろいろなことが結びつきだし、多面的に異次元的にものが見えてきた気がして、大渦巻きの中でグルグル回り続けながら奈落の底へ落ちそうなのは影を失った本体で、政治も経済もマスコミも教育も食料も、本体と入れ替わった影が牛耳っているとわかると、納得できる事態なのです。個々人にも国にも社会にもある影とどうやって対峙しながら共存していくか、それには正しい種類の知恵と勇気が必要で、影を排除すればいいというものではなく、しっかり自分にくっついているものだし、それがあっての人間の厚みや本物の光を作るものとなる。自らの影と共に生きることを学ぶには、自己発見の旅をしなければならない、見るのを避けたい自分の孤独や闇、でもどんなに混乱しても、カオスのど真ん中で影と直接に対決し、前に進み、影を自分の一部として受け入れ、内部に取り込む、それはとても難しく、予想ができない事でした。
でもデンマークパパと知り合い、彼がウガンダ家族やウガンダを愛するのを見て、ネパールやタイやいろいろな国を旅し、すべてを受け入れるまでの彼の心の軌跡や考え方を想像する時、今までとは違ったアイデンティティの存在を感じています。彼は彼の影と一緒にいる、私が魅かれるのはその多面性なのかもしれない、民族とか国民性とかと離れて、影というのはつかみどころのない、ふしぎなものです。彼の見ているもの、欲するものはどこか逸脱して永遠で、そして複雑なのでしょう。彼はアンデルセンと同じ国の人でした。
とことん傷つき、とことん考え、本当に他人を見たいと望むならば、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないということがやっとわかってきました。