9月も終わりに近づきやっと少し涼しくなってきて、朝早く起きごみを捨て花壇のそばを掃除していると、角にあるヒイラギの木の下に、毛虫のふんがたくさん落ちています。昨日は無かったのにと不審に思いながら掃除をして、木の上を一生懸命眺めるのだけれど、何もみえません。9時過ぎにゴミ収集車が来て、カラス除けの網をたたみ、アルコール消毒してからまた木を見上げると、大きな緑の青虫を見つけました。朝顔用の長い棒で虫を落とそうとしたけれど、しっかりしがみついていてどうにもならず、前の電器屋さんで働く女性にも見てもらったら、そのままにしてさなぎになって蝶になるのを待とうということになりました。何かの啓示かもしれませんよと言った彼女の言葉が胸に残り、棒で落として潰してしまってはいけない、てっぺんのヒイラギの葉を沢山食べてさなぎになって蝶になれば、大空高く飛んでいけることを忘れてはいけなかったのです。蝶が飛んでいれば美しいと思うのに、あおむしの時代を気持ち悪いと嫌悪するのはあまりに勝手だった、その日が来るまで気長に待てばいい、そう思うと朝起きてフンを掃除するのも楽しいものです。
はらぺこあおむしという絵本のことを思い出しました。実家にあった桃の木には毎年毛虫が沢山ついて、父が棒の先に布を巻き付けて石油を浸し、火を点けて燃やすとボロボロと毛虫が落ちてきたけれど、あれは害虫だった、でも青虫はそうではなく、邪鬼を防ぐというヒイラギの木のてっぺんで葉っぱを食べ、フンを落とすうちのあおむしくんは、誰かの生まれ変わりなのかしら。
昨日来た23歳のロンドン生まれのジョニーは、ピンクの靴下を履いたちょっとお宅っぽい男の子で、去年お母さんと来たリッチな女の子の紹介で来たと言われ、私は必死で思い出そうとして彼の見せてくれた彼女の後姿の浴衣姿の写メを見て、その時の光景が蘇りました。正直言ってやりやすいゲストではなかったのです。ティーセレモニーの前に用事があると帰ってしまったあと、残ったオーストラリアとナイジェリアの二人の女の子に抹茶を点て、最後にプレゼントをあげてハグして別れ、この後半をイギリス人親子は味わうことは無かったと思っているうち、ママは良かったとすぐレビューを送ってくれました。高級なホテルで豪華なディナーを食べている彼女たちは生粋のイギリス人で大金持ちだけれど、来た時の服装はかなりカジュアルで、とてもちぐはぐな印象を持ってしまいました。友達だというジョニーと一緒に4時間過ごして、今まで来たことのないタイプの彼が私にする質問や考え方などは初めてのもので、「趣味は?」と聞くと答えた後私に聞き返すこと、好きな本は?と聞くとあなたは何が好き?と返してきて、最近テレビで名探偵ポアロが好きで見ているからアガサクリスティーの本が面白いというと「僕のおばあちゃんもそうだ」と答え、ああ私は彼の祖母なんだと改めて感じました。
シャイな彼はなかなか写真を撮らせてくれなくて、お寺の庭園でポーズを取ってもらっている時、近くに座っていた女性二人が流暢な英語で話しかけてきて、帰国子女だそうで、三人のトーキングを聞きながら私はおのれの能力のなさを悲しく思ってしまいました。でも別れて歩きはじめると彼は彼女の英語はカリフォルニア英語だと肩をすくめていって、決して好意的でないニュアンスなのはイギリス人はアメリカ人を好まないからだろうし、フランス人も横柄で嫌とか言っているのを聞くと、うちに来るいろいろな国のゲストがイギリス人の男の子のことを暗いとか偏屈だと言っていたことがわからないでもないと納得してしまいます。アジア、オーストラリア、南米、アフリカ、中東と、様々な国の人達の話す英語は独特で、とにかく何とか理解して場を繋ぎ、文化や仏教についてわかってもらうために、私はめちゃくちゃに話し、情熱だけは認められてきました。最近はスペイン語がとても重要な事にも気付き、相手を理解し心の中に入るには、歴史や文明についても知っていなければならないと思うのです。
お茶道具が欲しいというジョニーを近くのお茶屋さんに連れて行き、抹茶と茶筅を買って茶碗はプレゼントしたのだけれど、最近抹茶を外国人が沢山買っていくので品薄になり、値上げせざるを得ないとお店の方が言うのを聞いて、茶道を習っていないと日本人は抹茶をあまり飲まないのに、外国人が好んで飲むという文化の逆輸入が面白く感じられます。以前に三越デパートで英語でお茶を説明しようという講習会があり、参加したら英語が話せるキャリアウーマンは沢山いるのにお茶を点てられる人がいなくて驚いたことがあり、結局他国の言葉がどんなに話せてもそれは自分のものではないのだから、それだったら日本語で日本の文化を高い表現力と技術を持って体現することの努力の方が大切だと思うのです。
私たちの世代は生きるための哲学をもっともっと学ばなければいけなかった、それが出来ていないから子供に伝えることもできない、でも若い世代は自分たちで模索し自分達で道を見つけて進んでいます。人は人を殺めるために生きているのではない、戦争という手段でなくても、殺めることと同じ行為をしようとしている年配者たちが、してはいけない事の判断が付けられず暴走しています。私たちは善悪の判断すらつかないほど落ちぶれてしまった。でもすべての命を守るための努力をするのは今でも遅くない。何が良くて何が悪いのか。ヒイラギのてっぺんにいるあおむし君は、静かにこの街を見下ろしています。彼を棒で落として潰してしまおうと私が思ったことを、彼はじっと見ていたのです。