コロナでお祭りもずっと中止だったから本祭りは本当に久しぶりで、今日は曇りで天気も持ちそうで朝から祭りの恰好をした方々が神社へ向かって行きます。祭りプロというのか、あちこち回っているであろう方々は、この静かな高砂をどう思うのかなと心配していたけれど、午後になって山車が出ると子供たちも親もたくさん後について歩いていて、なんだかみんな嬉しそうでホッとしました。最後宮入りの前にうちの前を通る時は結構みんな興奮するので、チェーンを開けて通行できやすいようにして準備していると、「ここは何やさんですか?」と聞いてくる方がいて、連れの女性がトイレを貸してくれと言います。
ゲスト達は草履を履いて部屋で写真を撮ったりするので、地下足袋のままで上がってもらい、帰る時に祭り装束の着方を教わり、私も祭りに参加している気分になり楽しくなってきました。ヤクルトファンの着付け師の方も担ぎ手として参加していて久しぶりに会ったり、昔のママ友が役員になって着物を着ていたりして、なかなか同じ町にいても逢うこともないけれど、こういうお祭りはみんなが一緒になれる良い機会だなと思うのです。
2022年は猿田彦命を先頭に神社の方々や町会の役員が車に神輿を載せて巡行したのですが、私はそれを見るのは初めてで、強い印象を持ち調べて見ました。先頭を歩く長い白髪で眼光鋭く長い鼻の赤ら顔の猿田彦命は、縄文人の子孫であり、道祖神の事でもあり、天孫を道案内した故事から導きの神、道の神とされます。世界中を渡り歩いて世界の5大人種「五色人」を創造し、このような(荒れた)世の中を、神の世に変えてゆこうとし、国を踏み開くことが目的で、新しい次のイデオロギーを生み出して、神に近づいていくという天孫降臨神話に登場する人気の神様です。その方が先頭を切り、神楽鈴を持った巫女さんが福鈴の音を振りまき、災禍の早期終結を祈念した高張提灯や五色旗(天地万物を組成している五つの要素、木、火、土、金、水の象徴をあらわしたもの)そして神輿が続いて、町内を大幣(おおぬさ)で祓い、罪や穢れ、災厄を清めて行きます。コロナや紛争など災厄を目の前にした時、己の罪や穢れを清めることでしか祓って行くことはできない、古事記や日本書紀に出てくる猿田彦命が先頭を切って道を開いていくのです。猿田彦命の存在も意味も知らず、見据えた先も知らず、子供が小さい時はお菓子をもらうためだけに山車の後を歩き、神輿の担ぎ手が醸し出すカオスにゾクゾクしていたけれど、平和な時代が過ぎ去り、不条理や理不尽が黒雲のように世界を覆い尽くす今、何のために祭りはあるのか、私たちは何をしなければならないのかを考えろと詰め寄られている気がします。こういうことは、外国人のゲストと話すのが一番面白い、私のところに来るゲストは風変わりで哲学的な人が多かったし、デンマークパパにぜひ話を聞いてもらいたいと思っているのです。そういえば、パブアニューギニアのママが玄関にあった日本人形を見て、巫女さんの恰好で鈴を持っているのは何の意味かと聞いてきて、わからなかった私は日本舞踊だと答えたのだけれど、本当は神楽鈴といい、お巫女さんが福鈴の響きを振りまくということだったのでした。そんなコアな人形が存在していて、それがうちにあることにも何だかびっくりしてしまうのです。
もともと日本には、古来よりあらゆる万物には神が宿る「八百万の神」という考え方がありました。神道のことをゲストに聞かれることが多いのですが、自然と共に暮らし農耕民族として生きてきた日本人は、太陽や雨、雲、海、山、川、動植物などすべてのものに神(人知を超えた大いなるもの)が宿っていると信じていました。春は豊作を願い種を蒔き、秋は実りに感謝して収穫する。自然の神々に五穀豊穣と健康や安全を祈り、それが儀式、祭りとして人々の暮らしに根付き、世代を超えて伝わっているのです。祭りとは人々の行い。どんなに暗い世の中であっても、多くの知恵を持って行動すれば、明るい兆しが見えてくるというもので、明けない夜はないのだとしたら、お祭りは単なる娯楽ではなかったのでした。
人々の思いや願いに触れ、生きる喜びを分かち合い、地域社会とのつながるところ、その営みにまたたくさんの人を引き寄せ、知られる場所となります。日本の文化として紡がれてきた様々なお祭りを通して今を語り継ぎ、知恵を集め、新しきことを生みだすきっかけになればいい、例えば夏の花火も美しさを楽しむだけでなく、納涼や景気づけ、鎮魂などの意味があり、盆踊りは元来先祖供養の意味があって、神事で家内安全、五穀豊穣、疫病退散を祈ります。人々の内なる思いや祈りが、営みとして表された形が「お祭り」といえます。神様を喜ばせるための儀式、霊や魂を慰め、神様に感謝して祈る、そのすべてが祭りの意味だったのでした。
神輿は神様が神社の外へ出かけるときに使う乗り物で、地域を歩き回ることでいつも見守っているところの様子を神様に見てもらい、穢れを祓い清め、神輿を揺さぶったりぶつけたりすることで神の力を一層高め、その恩恵にあずかるということをはじめて知りました。本当は今回はチェーンを開けないでスルーしてしまおうかと思ったのだけれど、聞こえてくる太鼓の音や担ぎ手の声が大きくなってきたときに、この地に縁もゆかりもない人たちが一生懸命祭りをしているのに、この地にずっと住んでいて、今は特に外国人に日本の文化を見せるという仕事をしている私が、神様を喜ばせる儀式に参加しないのは罪だと気が付き、少しの時間だけだったけれどそのエッセンスを味わえて本当に良かった。今回のお祭りは今までよりも温かく、皆の顔が穏やかで嬉しそうだったのが意外でした。
何かが変わってきている、私は物事に対して悲観的過ぎるとアシュレイに言われたけれど、政治も経済も、マスコミもSMSも、虚偽で固められているいま、自分の体は自分で守らなければならない、それには神様や仏様の温かいまなざしが励みになるのです。神様の存在、いのちの大切さ、人のために尽くすこと、そういうことを私たちは大事にして、すべてを守っていかなければならない。
フィンランドのガエタノから、秋景色になって来た山々や湖の写真が送られてきました。愛は遠くからもやって来るのでした。