義母のお父様の命日

 毎朝仏壇にお茶とお水を供え、拝むときにお位牌をずっと見渡して、今日が祥月命日のご先祖様はいらっしゃるか確認します。昨日は10月29日、どなたもいらっしゃらない、でも何かその日付に引っかかりを感じて台所のボードを見ると、義母がマジックで両親の命日の日付を端に書いていて、赤のマジックで「母 7月12日  父 10月29日」と残っているのです。お父様の命日だった、うちの床の間にはこのお父様の小さなお写真が義母の写真と並んで置いてあります。

 ここは中村家のご仏壇だから、どうしようか迷ったけれど、義母のお位牌もあるから大丈夫だと思い、お父様の写真を仏壇に上げて、お経の字の入ったお線香を灯しました。義母の実家の跡継ぎの孫は金銭欲にかられ弟妹達と縁を切り、拝みに行くこともできないし、命日にお線香をあげてもらうことなどない気がします。それは私の実家も同じことだし、姉もご主人の供養はしていないのです。お線香を灯してもお父様のお顔は晴れなくて、生前は民生委員の長として活躍し、政府から賞状ももらった偉い方だそうですが、娘の嫁ぎ先の仏壇にぎこちなくいらっしゃる姿を見ていると、言葉がありません。

 光と影、どんな人にも社会にも国にも、必ず光と影があるのなら、自己発見の旅の中で、カオスのど真ん中で影と直接に対決し、前に進まなければならない、それが全く思いもしない自分自身の幻であったとしても、それを自分自身の一部として取り入れる。それは影に屈することではなく、人としてのアイデンティティーを失うことなく、影を受入れ、内部に取り込まなくてはならない。その感覚の共有。正しい種類の知恵と勇気が必要だけれど、それはたやすいことではなく、危険もあり、自分の影に破壊されて終わることもあるかもしれない。

 すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影がある。でも影を排除してしまえば薄っぺらな幻影しか残らない。影を作らない光は本物の光ではない。私たちは影を見るという教育を受けて来なかった。高度成長時代、一律の家に住み平等な教育を受け、手をつないで同じようにゴールし、同じものを食べ、デザートにはカップのプリンが付き、同じテレビ番組を見て同じ時間に眠る、そんな生活をみんながするように推奨されていたのです。平和で何も考えなくていい、考えてはけない薄っぺらな時代でした。それに引き替え、今の凄まじいカオス、鬼が跋扈してる緊迫感、すべての人の中の鬼、すべての社会の中の闇、すべての国の中の孤独と影。でもこれが正常なのかもしれません。自分の中の均衡は自分で作り出さないと、生きていけない。鬼に従って生きていても、一歩間違えば簡単に首を切られてしまう、鬼滅の刃の時代なのです。

 

 今日は仏壇はいつも通りの落ち着きを取り戻しています。11月1日は、ひいおじいさまの繁蔵さんの命日です。