英語の百人一首

 小さい頃うちにあった百人一首の絵柄は落ち着いた昔の顔立ちのお殿様やお姫様が多く、怖い顔の僧侶も含めて病弱な私はそれでお人形さん遊びのように物語を作って密かに遊んでいました。紫式部の娘さんの大弐三位と相模の絵が好きで、殿方だと大江千里がハンサムだと喜んでいた私は、英語の百人一首がテレビに映っているのを偶然見かけ、録画してそれを作ったアイルランド人のピーターマクミランさんがゲストで出ている番組を見ました。ぜひ買って外国人のゲストに見せたいと思っていると、途中で小紋の着物に紫の羽織を着たアナウンサーが椅子に座って百人一首の句を読んでいるシーンがあり、申し訳ないけれどその着物姿がすっきり綺麗でないことに愕然としました。

 小紋なのに補正をきちんとして衿が綺麗なのはいいけれど胸元に厚みがありすぎ、衿は訪問着のようにかなり抜いているけれど髪はショート、それに羽織を着て椅子に座ると、首が見えないのです。自分で着る方もいるけれど、着付け師が入って一分の隙も無く着せたのだったら、これは美しくない、もっとざっくりしなやかに来て欲しいなと思っている私は着物警察なのかとふとおかしくなりました。女性アナウンサーはみな優秀で容姿端麗で、一流大学を出た才媛なのだけれど、じっと画面を見ているとMCのアナウンサーの顔が笑っていなくて、マクミランさんのコメントや解説が彼女の心の中に入っていかないでいることを感じ、反対に隣にいるタレントの伊集院光さんの感性が輝いていてとても生き生き語る姿が印象的でした

 うちに来るゲスト達は様々ですが、いわゆるエリートや高学歴の若者は何かを感じるということが乏しいというか、ある一定のところで心が止まってしまう気がするのです。メキシコ生まれのブルーカラーの旦那さんは派遣でユタ州で働き、ふっくらした奥さんはチョコレート工場に居るのだけれど、感性が豊かでいろいろなことに興味を持ち、アメリカにいて違和感を持つところもあるようです。帰りに寄った駄菓子屋さんでジブリの王蟲のブローチに興奮した私をみていた奥様は、黙ってそれを買って別れ際にプレゼントしてくれ、うちにある夏の着物で最上級の麻の作家物をまとった彼女の写真は堂々としている、その前に来た救急医療センターで働いている女医さんが、化繊の緑の着物を着てお寺に行ったことを思い出しました。

 みんな違ってみんないい、うちの着物を着たゲストはとにかく綺麗なのだけれど、先週の日曜日に来たフランス人の女の子はなんとノーブラで且つ豊満、私はかなり焦り、でもさらしで巻くわけにもいかず、薄い下着を着せてその上に長襦袢を羽織らせたけれど見事に襟が決まらず、その後に着付けたアルゼンチンの女性も赤い振袖の衿が細くなってしまい、痛恨の二人振袖姿になってしまいました。でも補正もせず大きな振袖を着た姿が情熱的で哀愁を帯びた彼女にはとても似合っていて、この前来た若い女の子にはしっかり補正をして袷の長襦袢を着せ私は満足していたら暑くて苦しくて気持ちが悪くなり、慌てて脱がしたことを思い出し、着物を着せるということは自己満足では絶対にいけないと改めて思うのです。ノーブラだっていいじゃないか、健康的で美しく笑っているフランスの女の子は綺麗でした。だから私は外国人に着物を着せると、日本人より素敵だといつも感じます。今度は百人一首を若い彼らとやってみよう、百人一首に現代の視点、更には異文化の視点から新しい光をあて、現代人にも通じる言葉を使うことの喜び、感情や五感を表現することの豊かさ、想像力の広げ方の感性を持っているのはアメリカ人でもドイツ人でもなくフランス人のような気がします。

 リピーターが増えてきた今、前と同じことが出来なくなってきたと悩む私にとって、留袖を使って作品を作ってみたい南アフリカのデザイナーやの存在や、百人一首という新しいジャンルの日本の古来の遊びは新しい文化の入り口になるのかもしれません。