夜中の2時、煌々と月が輝き、周りにはたくさんの星が煌めいています。オリオン座をこんなにはっきり見るのは久しぶりだなと思いながら、私は源泉かけ流しの小さい露天風呂に浸かっていました。冷たい夜風に吹かれ、顔は冷たいけれど温泉のお湯は体を芯から温めてくれ、だんだんホカホカして来ると夜風も気にならなくなり、沢山星を見ようと湯から出てあちこちうろつき回るのです。
12月は全く予約が入らず暇で、去年は京都へ行ったのでしたが、今年は近くの温泉に行こうと夫と一泊で湯河原へ来ました。坂が多いので自転車乗りが来ないからいいよという年配のタクシーの運転手さんの言う通り、静かな温泉町の湯河原には外国人もいないし、昔のまんまの佇まいです。コロナの頃は全く人がいなかったけれど、だんだん回復してきて、私たちが泊まったホテルも年末年始は予約がいっぱいで、家族連れなどが静かに楽しんでいる善き場所のようで、着いてから私は山の上など随分歩き回ったけれど、ミカンが沢山なっていて山の上にも旅館やおうちがあり、同じ神奈川でも父の故郷の丹沢の山の中とはずいぶん違うものだと考えていました。
食事も年寄りに優しく柔らかくてぜいたくなものが多く、偏食の夫がほぼ完食しているし、野菜類も小さな綺麗な器に少量盛られていると食べてくれるものだとわかり、うちでもやってみようと思ったのです。夜中の2時にいつも目が覚める私は、浴衣のまま外へ出て、覚悟して裸になり露天風呂に入ると、芯から体が温まり、出てからも体が火照るような感触は初めてで、4時に目が覚めるとまた寒い中外へ出てお湯につかりました。星が綺麗で、お月様が輝いていて、膝にもお湯の温かさが沁みわたり、なんてありがたいことだろうと感謝しながら、私はなんて幸せなんだろうとここで完結することはもうできないのです。自分のやれることをもっと突き詰めて新しい観念や感覚を求めていかなければならない、今までの価値基準は通用しないのならどうしたらいいのかと考えながら、お湯に浸かって空を見上げた時、羽生選手のアイスショーの演目「ペルソナ」という言葉が頭をよぎりました。50年以上前に岩波ホールで見たベルイマン監督の映画と同じ題名なのにまず驚いたのですが、ペルソナとはユングの概念で、元来古典劇において役者が用いた仮面のことであり、人間の外的側面が、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあり、これがペルソナなのです。生きるために仮面を被り続け、いずれ仮面を外せなくなり、本当の自分がわからなくなるのです。逆に仮面を被らないことで自身や他者を傷つけてしまう場合もあるのです。
息子が小さい頃ゲームが流行り始め、外で遊ばず家の中でファミコンに夢中になるのは私は嫌で買わなかったけれど、友達の家でプレイしていた彼はどの位ゲームに影響を受けたのかわかりません。ただゲームにもいろいろなものがあり、映画よりも文学よりも深いメッセージを持っているものだと今更ながら知り、それこそ仮面を付けたままで本当の自分をわかろうともせず浅薄に老いてしまった私たち世代より、深いゲームに虜になり考え尽くした発想や複雑な深層心理を持つ若者の方が、はるかに人間としての伸びしろがあるのに気が付いています。「大切なもの」に命を掛け、覚悟の中で生の充実を得るという、現実ではとかく難しい体験をロールプレイし、死を意識することで生の充実を考えるきっかけとなるような物語を提供しているこのペルソナというゲーム。必死に探してこそ夢が見つかり、必死に生きてこそその夢が叶う、生きがい(=死にがい)が見つからないずべ手の若者に向けた励ましを試みている作者たちの熱い想いがあることをはじめて知りました。新しい考え方、思惟は、思いもかけないところから繋がっていたのです。
露天風呂の中で見上げた湯河原の月は、新しい物語をもたらしてくれる鍵なのでしょう。