喪中のお正月は簡素です。おせちも鏡餅もお飾りも買わず、色々な行事もカットしテレビも見ないでいると限りなく静かで、近くの民泊に泊まる外国人のスーツケースのゴロゴロという音が、深夜でも響くだけです。一日には子供たちがきて、カニや刺身やローストビーフを食べながらいろいろな話をして、乱世の中で異端児の息子は仕事が面白いというのを聞きながら、やっとここまでたどり着いたと思うのです。
息子が仕事で行った広島が、サイズ的にも町的にも良かったという話が心に残り、1月3日に羽生選手のアイスショーが行われることもあって、行って見たいなと思います。日本の神話を読みながら、伊勢神宮にも行きたいし、高千穂もイギリスのゲストがいいと言っていたことを思い出し、回れるのかもしれないと期待するのです。
みんなそれぞれ沢山の引き出しを持っていて、自分をきちんと律し、考え、進んで行けばいいといういい位置にいる。わたしも自分の欲から離れたいい位置にいるのです。長女がなぜか2020年の新聞を持ってきてくれて、生物学者の福岡伸一さんとイギリスに住むライターのブレイディみかこさんの「「多様性ってなんだ」を面白く読みました。多様性と分断は隣りあわせで、英国でも宗教やEU離脱などでは意見が真っ二つに分かれるけれど、同じ場にさえいれば、日常的に対立しながらも相手を理解し、落としどころを探る知恵も身についていく。多様性の対極は相手を知ろうとしない態度だと言い、無知が原因で恐怖心が湧き上がってくるのです。ハーフの息子さんが「なぜ多様性が大事なのか」と問うと、「うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、多様性は無知を減らす」と答えたみかこさんは、他人の感情や経験を理解するエンパシーという能力、他者の立場を想像して理解しようとする自発的で知的な作業が大事だという、わたしがエアビーの仕事で得たのはまさしくエンパシ―なのです。日本では誰もが日本語をわかって当然という均質的な社会だけれど、米国では違う文化で生まれ育った人々がプアな英語で意思疎通しているので、言葉で表現したこと以外に気を回す余裕なないし、それを求められもしない、自分自身や自国の文化を相対化する環境に身を置く経験は貴重です。エンパシーを働かせるには土壌がいる、街で異なる人たちと実際に関わり合うことが、他者を想像する時の土台になるのです。
1980年代後半、生物の種の多様性が必要だという形で提唱され、次第に広まっていったのですが、1つの種の中に多様性が存在することもその種が生き延びるために不可欠で、何百万年といった生物界の長い時間軸の中では、いつ突然、環境が激変するかわからない、その時ひ弱そうな個体の方が生き延びるかもしれない、種が生き残るためには、個体のバリエーションが豊富な方がいい。人間という種にも、多様な存在の仕方がある方が、長い目では得である。「変わり者」を多く内包している社会の方が実は強靭なのだけれど、生物学的には人間ほど多様性に乏しい生き物はいないのです。GAFAなどのグローバル企業も多種多様で優秀な人材をかき集めながら、世界中でサービスの画一化を進めているが、結局は効率的に売り上げを最大化しているだけで、自分の利益のことしか考えていない。真の多様性とは、違うものの共存を受け入れるという利他的な概念で、本質的には自己の利益や結果を求めるものではない。多様性は利己性より利他性になじみがある。考えたくもない人の立場に立って発想してみるってすごく難しいが、自ら学ぼうとしないと自分の利他性に気づけない。偏見や強者の支配に捉われてしまう。学ぶのは自由になるためで、自由になれば人間は他人の靴を履くこともできるし、勉強すれば人の視界は広くなる。するとお互いの自由も尊重し合う力を持てるようになる。アイデンティティとは一つではない。いくつかの組み合わせで一人一人のユニークな「自分」が出来ている。その個人が尊重されること、これが多様性で人間の本来なのだそうです。
少しずつ、前が見えてきました。新しい限界に、挑戦しましょう。