中世ヨーロッパの修道院では、日々の生活の中で死を意識し、霊的な成長を促すためにこの言葉が用いられました。修道士たちは、人間の命がいかに儚く、死がいつ訪れてもおかしくないという事実を受入れ、神への信仰を深め、倫理的な生き方を追求しました。メメント・モリはラテン語で「死をわすれるな」「死を想え」という意味です。
羽生選手のアイスショー「エコーズ オブ ライフ」をCS放送で見て、初めて知った攻殻機動隊の中の曲「UTAI」、ペルソナ3の「Mas Destruction」「シュタインズ・ゲート」など、アニメやゲームというものがこんなに深く、物事を考えているとは知りませんでした。私たち高齢者は人生のどこかで止まってしまっていて、若い世代を育てることもできず、自分の思惟を掘り下げることもできず、上っつらの欲に取りつかれ、怖ろしい形相で一番上に居てふたをしている、そんな図がやっと見えてきました。そして今一番刺さっているのがゲームの中にでてきた「メメント・モリ」という言葉です。
銃口を自分の頭に突き付けて、いつでも引き金を引けるという命がけの選択や挑戦をしているという証、生きるとは何かという問いに、「死」だと答える、死ぬくらいの覚悟を持っていて、常に死と隣り合わせの中で、死の恐怖を克服して命がけで戦う覚悟があるかというゲームを、子供たちはしていたのを親は知らなかった。昨日夕食を食べながらニュースを見ていたら、千葉大学で遺伝子組み換えをした稲からコレラ菌に効く飲むタイプのワクチンを作りだし、そのうち人で試してみるというのだけれど、遺伝子組み換えの食品は取るなと言われているし、コロナワクチンの是非も問われている時に、コレラ菌ワクチンの治験が実施されるのかと恐ろしい気がしてきました。
それを夫に言うと、一言「ネットに惑わされているな」と冷ややかに返され、私たちの体も心もどんどん蝕まれて行くこの世の中の仕組みは、いったい誰が決めているのかと思うのです。一つずつ、私は丁寧に害を排除して暮らしているつもりだけれど、死は必ず訪れる避けることのできないものであり、だからこそ今この瞬間を大切に生きることが重要で、誰も見ていないところに辿り着くには、誰もいないところで命を削ってでも頑張らないといけない。
今までとおんなじことをのんべんだらりといつまでも続けているから、天がヘイトレビューを与えてくれた気がします。人間は脆く、命は短いのです。死を意識することは、私たちにとって本当に価値のあるものは何かを見極め、それに基づいて行動する勇気を与えてくれる。自分自身の夢を追求し、人生の逆境においても機会を見出すことが出来るのです。これまでの私のブログを見直し、ゲストとの会話を読み返してみたら、こんな題名のものがありました。「逆境でも跳ぶ」 メメント・モリ。 跳びましょう。