浅草寺の境内から花やしきの前を通り、ずっと歩いていくと合羽橋までたどり着きました。お目当てのせいろはどこかしらと思いながら、とりあえず道沿いにあるお店をかたっぱしからのぞいてみると、包丁やお鍋や瀬戸物や専門店のグッズなど所狭しと並んでいて、外国人が沢山お店の中にいます。こんなに刃物の店があるんだとびっくりしながら、そう言えばずいぶん前に来たゲストが合羽橋で玉子焼き器と包丁を買って、遅れてやってきたことを思い出しました。着物を着てさんざめいている外国人とは違う国の方々のようで、女性は背が高くがっちりしているのは北欧系なのかしらと思いながら、瀬戸物の並ぶ綺麗なお店へ入って見ると、素敵なマグカップが並んでいて、何とフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の絵の付いているものもあり、心が惹かれたけれど畏れ多くて、これでコーヒーを飲むことは出来ないと諦めました。
持って重くないマグカップがずっとほしくて、並んでいるものを次々手に取っていると、ピカソの絵の付いたものが5点並んでいるのに気が付きました。軽くて持ちやすく内側にピカソと署名があり、ひとつずつ絵が違うので、あまり激しい色調でない「花束を持つ手」というものを買い、これがきっかけでピカソのことを調べられると思って嬉しくなりました。隣で木製のプレートやスプーンを手に取って眺めている背の高い外国人の女性がいて、本当にこの通りには日本の生活や料理などに関わるリーズナブルな様々なものがあり、これぞ日本文化だなと感じるのです。ずっと先には仏壇やさんもあって、お寺もあって、駅まで歩いて松屋デパートの地下でアンコウや牡蠣を買って帰りながら、浅草っていい街だなとつくづく思い、柴又にこだわりすぎるのは良くなかったかなと反省しています。
日本にやって来る沢山の外国人たちは、他の国に比べて日本は安全で食べ物が美味しく、人々は礼儀正しくて親切だと口々に言います。私もそう思う。だけれど危険な事態に陥ったり、相手が自分を憎んで攻撃を仕掛ける、災害やコロナウィルスといったどうにもならない巨大な力が襲ってきた時、どうやって戦うか、どうやって他の人をも救おうとできるか、どうやって心を冷静に正常に保って前に進もうとできるか、それがわからない、そういう目に遭ったことが無かったのです。
新海誠監督の映画「天気の子」では、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」するストーリーで、社会のセオリーから外れても自らの選択を貫こうとしました。かつては穏やかに移ろう四季の情緒を楽しんでいたはずの気象の変化が、いつのまにか危機に備える必要がある激しいものとして、とらえ方がすっかり変わり、これからは、天気は楽しむだけのものではなくなってしまうだろうという、不安や怖さを実感しているのです。生きることの厳しさを知っているゲスト達は、楽しく四時間を過ごして帰る段になるとすっと無表情になり、淡々と別れを告げられるとはっとすることがあるのですが、レビューは思いがけなく優しかったりするのが意外でした。
合羽橋を歩いている外国人は、ヨーロッパ系の雰囲気を持っている人が多い気がして、道具や生活グッズを買って自分の国で役立てようとしっかり選んでいる姿が微笑ましい反面、中国人やベトナム人の経営する着物店も多くなり、ファッションとしての着物はもう異国のもので、日本の着物が入り込む余地のなさを感じ、たまに見かける日本人の中高年の女性の着物姿が申し訳ないけれど少しも綺麗でないことに愕然とするのです。ただこれは長続きするものではない、やはり私には私のやる道があることを強く感じていて、残していくべき、着物や日本文化の魂とか慈愛を、わかり合える人達に伝えていかなければならないと思っています。
私という存在の意味はなにか。何で私は生きているのか。いろいろな所へ行き、いろいろなものを見て、新しい感覚を見つけます。